自伝の1部です。

2017年06月30日 12:19

私はずっといじめられっ子だった。ハーフ顔。2016年今日においてはプラスのステイタスだが、25年くらい前は、いじられる対象でしかなかった。「ガイジン、ガイジン」いつも、からかわれていた(ガイジンは差別用語ですね、正確には外国人、カッコ内は私の心情だと思って以下読んで頂きたい)。

そんな私にもスーパーヒーローがいた。父と祖母だ。

詳しくは知らないが、父も叔父も野球では凄いプレイヤーだったらしい。(かく言う私は運動神経が悪い、ウインタースポーツは出来るのだが)。

母(私を産んでくださった人だ)は気が狂ったほどの過保護で、私の為となると学校や職場へ訪問や連絡を良くしたものだ。

弟(年子)とは似ていると言われる。今後私は何人かの女性と付き合うこととなるが、常に「お兄ちゃん」「頼られたい」のは彼の影響だと思う。

現在33歳(H28.10.19で33歳)。後頁に、年表を入れてあるので参照にしてほしいが、初めての記憶は幼稚園の入園式になる。

3歳、昭和61年。仏生寺川は整備がされておらず、土手にはヒマワリが咲いていた(H28年に近所のお婆さんに聞いたところ、昔は彼岸花や桜も見られたそうだ)。

いわゆるボットン便所だった。免疫力というものは、こういうところから付くのだと思う。衣食住何一つ不自由なかった。母や父、弟と風呂に入るのが、とにかく楽しみだった。今は氷見から撤退してしまったが、おもちゃ屋のロボットのチラシを切り抜いて壁に張っていた。ガンダムのプラモやファミコンは叔父や叔母がくれた。1985年(昭和60年)9月13日はスーパーマリオの発売日だった。夜も更けるまでやり込んだものである。

・スーパーマリオ

・じゃじゃ丸くん

・ゼルダの伝説

・ガチャポンウォーズ(ガンダム)

しかしながら籠ってばかりではなかった。

「野球」がとにかく好きだった。

「やこてん(石川県の人に馬鹿にされた・正式名称はカラーボールだろうか?)」「カラーバット」で野球をしていた。非力な私でもレフトにホームランを打てた(ちなみに右利き)。時に軟式ボールを触るときもあった。

「グローブは一度水につけて干すといいらしい」

よく分からないデマが流れた。この時代、もちろんインターネットなど無かった。

駄菓子もよく食べた。ガンダムのカードダス20(20円)結構ハマッた。先に言っておくが私はかなり運が強い。キラカードは少ない小遣いから、かなりの確率で当てていた。チョコレートが大好きだった。H28年以降もおそらく愛し続けるだろう「うまい棒」も好きだった。いや、今も好きだ。4歳の頃、不運にも川に落ちたのだが、自力で泳いで助かった。仏生寺川の水位が低かったり、流れが速かったりしたら死んでいたと思う。スイミングスクールへ行っていたのも幸いした。運が強い、いや悪運が強い。ここに大事なことを書く。

「忘れがちだが自分の身は自分でしか守れない」

続く。